snooze.

自分語りしかない

ようやくわかってきたようなJ☆Sのこと

 質問箱、文字足りなくない?ということで勢いでブログ開設したはいいもののどうもしっくりくる文章を書けなくて戸惑って1か月寝かせました。

そもそも文章力も語彙もないしお花畑なのでマジでものずきだけ読んで。わたしはポエムがかきたいんだよ。わたしの好きなブロガーも人間のかくものはだいたいポエムじゃねえかなっていってたよ。だよね!

 

まあ、解釈というより自分語りとみやのさんのこれまでの話をしてしまいそうな予感はしている。

正直にいうとわたしJ☆Sのこと、最初はぜ~んぜんすきじゃなかったし、今も80曲近くある同率1位(?)の中にすら入っていません。好きじゃないわけじゃないというか、好きなんだけど、みやのさんが「みんな好きでいてくれる」っていうたびにいつもごめんねって思ってるよ。

でもなんていうか、「好き」とは違うけど、めちゃくちゃに大事な曲だなあというのは常日頃からあって。

 

曲単体よりもMVではじめて聴いたような気がしてるんだけど(9年前のことなので記憶が曖昧なのはゆるしてほしい)まず第一に「なんだこの配色センスは」って思った。オレンジのハット被せたの誰だよ。

いや2014年の暮れにね?私服でヤンキーが壁にスプレーでなんかよくわかんない英語書いてやったぜみたいな文字がそこかしこに、背中には手の骨がバァァァァーーーーンとプリントされたライダースを着て六本木を歩いていた男なのでこれ以上言うのはやめときます。

 

曲、そう曲の話だよ。いやそのMVがあったから、色遣いのインパクトが強すぎてちょっと印象に残らなかったみたいなアレはありそうですけど。

宮野さんが伝えたいこともわかるし、この曲に赦される感覚はいつもあるんですけど、まず純粋に曲調が好みのものではなかった。

でも「嫌い」と言えなかった。だってみやのさんが「指針」とかいうからさー。

とはいえ下水みたいな性格をしたわたしは、この人のこの思想を推すことはないだろうと思っていましたよ。でも知らないうちに、自分でも気づかないうちに身体になじんでいた。

 

わたしは今でさえこんなに傾倒してみやのさんのことがすきなんだけど、当時は割とライトでぽかーんと口をあけてエサが落ちてきたらラッキーみたいなオタクだったからよくわかってなかったし、まずネクラでひねくれたオタクなので「この曲に救われました!」みたいなツイートやらなんやらをみても、「ん~~~~~???」って言ってました。だからごめんって。ゴメンプサイ。

いやでもつい最近のどくろじょうの機材トラブルの時のよくわかんないタグだって「バカかな?」って思ってましたよ。これ炎上しますか?話が逸れた。(だれもみてないよ)

 

わたしはこの曲「だけ」に救われた経験なんてなくて、わたしはいつからかこの曲に、ひとりの人間としての宮野真守を見ているんだなっておもいます。

ファンから宮野さん、宮野さんからファン、どちらでもあるとおもっているけれど。

 

昔から、ファンが「この曲に救われた、背中を押された」と言っていることに宮野さんがうれしさを感じていてくれるという事実があるから、その時点でこれは「宮野さんからわたしたちへの歌」だという認識があり、わたしはここにいて笑っていていいと思わせてくれる。

でも

どんな辛くても今は笑ってよ 

この部分をわたしたちが歌うことで、 わたしたちはきっとこの人の「赦し」にはなれないんだと実感させられるときがわたしにはある。それでも、「原動力」になれるんだということを、

何気ないみんなの笑顔に救われて それがまた頑張れる力に

と歌ってくれるように、歌も、言葉も、すべて身をもって伝えようとしてきてくれたから、それならばわたしは宮野さんが「宮野真守」という活動をするための原動力になりたいし、力の限り叫びたい。

 

歌うまもわんぐらんぷりで「みんなの笑顔に会いたいから、それが俺の支えになるから」と言ってくれたことは、宮野さんにとってもわたしにとっても笑顔というものが献身という意味ではなく、同じく歌うまもわんぐらんぷりで「みんながあって僕がいるんだ 僕があってみんながいるんだ」と言ってくれたようにわたしたちの絆であり、確固たる信頼であり、共依存であるとおもっている。

わたしが知っているみやのまもるなんてごく一部で、それすらも本当のところはだれも知らなくて。

それでも宮野さんは人間だから苦しい思いをしたことも、もがいていたことも、焦っていたことも、わたしだってバカなりに10年以上追いかけてきたんだ、ほんの、ほんの少しくらいはわかるつもりでいる。

だからこの曲がほんとうのことだ、って思える。

だから苦しくて、でも自分の苦しいこともなんだか包み込んでくれる気がして、でも苦しくて、と思って感情がしっちゃかめっちゃかになってライブでは泣いていますね。哀れんでください。

たしかに私は舞台の上に立っている宮野真守のことが大好きだけど、それにはどうしたってひとりの人間としての宮野真守が必要で、大事で、もう一度だって傷つけたくないって思うし、不安なんか一切感じさせないくらいみんなで笑っていたいんだよ。

だから、「どんくらーい」「すまーいる」で、一体感を感じてまたうれしくなってぼろぼろに泣きます。

加えて、このひとの承認欲求というか自己愛の満たし方として本人も自覚しているものは「他人の笑顔」であり、きっと多くの人間から長い間認められてきたこの曲が安心できる場所であり、臆病である宮野さんが「エゴ」と称するものを持てる場所であるということ≒ぶれることなく自信をもっていられるということも、この曲に執心している訳のひとつかな、とも思う。

 

まあね、なんだかんだ言ったってこれが宮野真守の曲である限り、宮野さんの前では笑っていようって思えるんだよな~ってかんじです。解釈でもなんでもなくてすみません。

 そもそもわたしは楽しそうに笑っている宮野さんのことがずっと大好きなので、あなたが楽しそうに幸せそうにしていてくれるなら、何をしていたってわたしはどこまでだってついていくし、わたしはもういつだって「応援してきてよかった、わたしの人生を豊かにしてくれた」って言えるよ。